合掌。エルヴィス・プレスリー - Wikipedia: "エルヴィス・アーロン・プレスリー (Elvis Aaron Presley, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのロックンロールミュージシャン。キング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。1977年8月16日、心臓発作により急逝。42歳だった。"
2009年8月16日日曜日
8/16 Today エルヴィス・プレスリーが死ぬ(1977)
2009年7月4日土曜日
7/4 Today アストル・ピアソラが死ぬ(1992)
タンゴもボサノバもすっかり陳腐化してしまいニッポン以外ではすっかり落ち目だが、ピアソラはタンゴに新しい風を吹き込んだ。アストル・ピアソラ - Wikipedia: "アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla, 1921年3月11日 - 1992年7月4日)はアルゼンチンの作曲家、バンドネオン演奏家。タンゴを元にクラシック、ジャズの要素を融合させた独自の演奏形態を産み出した。"
Youtube から一曲:
最近の日本では、やたらに「伝統芸能」がもてはやされているが(「故郷町おこし」と関係があるらしい)、あまり「伝統」とやらにとらわれていては文化はさらに退嬰するように思う。
2009年7月1日水曜日
7/1 Today エリック・サティが死ぬ(1925)
エリック・サティ - Wikipedia: "エリック・アルフレッド・レスリ・サティ(Erik Satie, Eric Alfred Leslie Satie, 1866年5月17日 - 1925年7月1日)は、フランスの作曲家。「音楽界の異端児」、「音楽界の変わり者」などと称されるが、西洋音楽の伝統に大きな扉を開いた革新者とみなされている。
多くの西洋音楽史の進化は、その兆候が徐々にやってくるのに対し、サティがやり始めた数多くの革新は、過去の音楽や、他の民族音楽などの中に全くないものではなかったものの、その殆どが純粋に彼独自の自発的で突発的なアイデアに基づいたものであり、現代音楽の祖として評価は高い。ただ、あまりにもその実際の傾向が特異すぎたことと、複雑さを追求するような職人技よりもシンプルさを追求したものであったために、その真価が正統に広く理解されていない不遇な作曲家として旧来から惜しまれ続けている偉人であるが、数多くの作曲家たちがサティによる開眼を公言している。"
追悼のために You Tube から『ジムノペディ』第一番を:
2009年6月25日木曜日
6/25 Today テレマンが死ぬ(1767)
へ〜、当時はバッハやヘンデルより人気があったんだ。なぜか?ゲオルク・フィリップ・テレマン - Wikipedia: "ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann, 1681年3月14日-1767年6月25日)は、後期バロック音楽を代表するドイツの作曲家である。生前は同時代の作曲家であったバッハやヘンデルより、人気と名声のあった作曲家とされる。"
オペラ、コンサート、教会音楽や出版を行い、高い名声を得た。テレマンは、裕福な市民層を相手に作品の予約販売という方法で成功を収めたほか、隔週の市民向け音楽雑誌「忠実な楽長」を刊行、毎号、新作楽譜を掲載し、必ず、続きは後の号に載せることで継続して買ってもらうという新手の商法を生み出すという商売上手であった。
1722年、ライプツィヒの聖トマス教会の楽長が亡くなった時、ライプツィヒ市はまずテレマンを招聘しようとしたが断られたため、仕方なく知名度の低かったバッハを招聘したというエピソードからも、当時のテレマンがバッハより人気が高かったことがわかる。
「食卓の音楽」。宮廷の宴席で好んで演奏された室内楽を集めたもの。三つの曲集からなり、各々の曲集に、管弦楽組曲、コンチェルト、四重奏曲、トリオ・ソナタ、ソロ・ソナタといった異なった器楽合奏曲が含まれ、「バロック音楽の百科全書」とも呼ばれている。この作品を販売するに当たっては、特別価格での提供と予約者を当作品集の冒頭に記載すると広告したところ、ドイツ国内、海を越えてイギリスからヘンデル氏が、フランスやロシア・スウェーデンからも予約注文があったという。
いろいろビジネスモデルを創意工夫した人らしい。当時の芸術家は座っておれば売れるという殿様商売でなかったところが面白い。そればっかりになっても困るけれど、殿様商売が制度化すると国は衰退してしまう。
2009年6月15日月曜日
6/15 Today エラ・フィッツジェラルドが死ぬ(1996)
合掌。エラ・フィッツジェラルド - Wikipedia: "エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald 1917年4月25日 - 1996年6月15日)はアメリカ合衆国のジャズ・シンガー。サラ・ヴォーン、ビリー・ホリデイと並び称される女性トップ・ジャズ・ボーカリストの一人。
13回のグラミー賞受賞に加え、イェール、ダートマス、プリンストン大学において名誉博士号を授与され、ジョージ・W・ブッシュ大統領からは大統領自由勲章を授与されるなどレコードセールス、批評の両面で高い評価を受けた。
Lady Ella、またはThe First Lady of Jazzとも呼ばれている。"
2009年5月11日月曜日
5/11 Today 巌本真理が死ぬ(1977)
巌本真理 - Wikipedia: "巖本 真理(いわもと まり、1926年1月19日 - 1979年5月11日)は、ヴァイオリニスト。本名、巖本メリー・エステル。教育者巌本善治の長男である巌本荘民(まさひと)と、米国人マーグリトの間の長女として東京西巣鴨に生まれ、メリー・エステルと名づけられる。6歳からヴァイオリンを小野アンナに学ぶ。ハーフとして差別を受け、病弱だったためもあり、1935年、私立帝国小学校を4年生で中退[1]。自宅でヴァイオリンの英才教育を受け、1937年(38年説あり)、音楽コンクールで一位となり、天才少女と呼ばれる。1942年、英語が敵性語とされたことを受け、真理と改名。1977年、乳癌に罹り手術するが、再発し、惜しまれて53歳で死去。日本初の室内楽定期演奏会94回の偉業を達成した。"
合掌。
妙なことだけ覚えているが、彼女は演奏会の途中で手を休めるとき、ヴァイオリンは顎に挟んだまま両腕だけだらっと下に降ろすかたちで休憩していた。あのポーズは合理的なんだろう。
2008年12月25日木曜日
グールド:ゴールドベルグ変奏曲(55年モノラル盤)
息子に貰った。ゴールドベルグなら持っているというに55年盤を聴くと全然違うという。確かに全然違った。Amazon.co.jp: バッハ:ゴールドベルク変奏曲 (55年モノラル盤): グールド(グレン), バッハ: 音楽: "バッハ:ゴールドベルク変奏曲 (55年モノラル盤)
~ グールド(グレン) (アーティスト), バッハ (アーティスト) 1955年、生意気でエキセントリックだが、恐ろしく才能に恵まれた22歳のピアニストが、この記念碑的名作にかかっていたクモの巣を払い落とし、一躍スタ-になった。フィッシャ-、カザルス、ランドフスカのロマンチックなバッハを聴いて育った人は、冷水を浴びる思いがするだろう。グレン・グ-ルドの軽快で自在な指と緊迫のリズムが、歯切れいい音、闊達なリズム、そして驚愕のテンポで対位旋律をきれいに洗いだし、洞察力と放胆な解釈でバッハの名作に火を点けた。このデビュ-録音はグ-ルドの市販ディスクの中でも、最も有名ですばらしい。とにかく買って聞いてみることだ。(Jed Distler, Amazon.com)
"
若いときのグールドは例の「うなり声」を上げていないのね。マイクの性能が悪くうなり声が拾えなかったのかも知れない。
ともあれ81年盤とはすごく違う。おいらみたいに81年盤でグールドに「開眼」した人間にとっては、55年盤はまるでMJQを聴いているようで(MJQがこのグールドを真似したのだと思う)、いささか違和感すらあるが、エライ人ほど変化すると言うことであろう。「変わらずいるためには自分が変わらなければならない」とは「山猫」の老貴族の言。
55年盤:
81年盤:
2003年2月6日木曜日
Le Monde : バルバラの教えを聴こう
2003.2.6
死後5年、バルバラの歌が大いに注目され、売れ続けているとのこと。もうちょっと低音だったらもっと良いと思うんだけれど、これは趣味の問題で、深く訴えるものがある偉大な歌手ですね。
Ecouter la leçon de Barbara (2003.2.6)
バルバラの教えを聴こう
セルジュ・ウローが、この政治的関心の高く、傷ついた一人の歌手の人生を舞台化した。死後5年経って、彼女の歌はいまだに世の中に感動を与える。
バルバラは1997年11月24日、パリで死んだ。呼吸器系と消化系の炎症であった。67歳だった。彼女は死に、その前も90年代に入っては疲れ切って喉を痛めていたが、そのことは彼女がいまだにアイドル的な存在であることには少しも影響していない。今日、彼女の歌は、故ブレルやブラッサンスのものよりも多く歌われているのである。
彼女のサイト(lesamisdebarbara.free.fr)ではバルバラの友人達が彼女に関するすべての事柄を公開している。ダミア、イヴォンヌ・ジョルジュ、エディット・ピアフ、マリアンヌ・オズワルドから彼女に繋がるそうそうたる系譜図まで掲げている。セルジュ・ウローは彼の新しい芝居にバルバラを扱う。「お上品な文化はシャンソンを嫌う。なぜならシャンソンは直接的だからだ」とこの喜劇役者は言う。
彼女はいつも黒い服を着て熱狂的なファンを集めた。晩年は四方を壁に囲まれた庭のある修道院風の引きこもった。死後5年経った今、なぜバルバラの教訓的な歌を聴かねばならないのか? どうして今でもこのアンチ・ポップのスターはこれほどまでに人気があるのか? まずフランスのシャンソンは長い歴史があることを挙げねばならない。黒い服に身を固めたバルバラは昔から体験されたシャンソンを代表する宗教的存在であるのだ。
そう「体験されたシャンソン」なのだ。彼女は惨めさを歌い、よろこびを歌い、時代を歌う。彼女は有名な人気歌手ではあったが同時に政治的参加をする歌手でもあった。平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあり、ミッテランの支持者でもあった。でもバルバラは代弁者、先人の意向を巧みに伝える人として仕事を始めていることが重要だ。1950年代には、彼女はピアフの歌をなぞりながら作詞しているのだ。
バルバラは激しく仕事をして、膨大なレパートリーを増やした。レオン・サンロフ、アンリ・フラグソン、モーリス・キュヴリエ、ポール・マリニエなどの歌である。若い作詞家の歌も多く歌った。ジャック・ブレル、ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、モーリス・ヴァダラン、ルネ・レヴェックなどだ。1960年には「バルバラ、ブラッサンスを歌う」でグランプリを獲得している。次にブレルの歌で。
1958年には78回転や、45回転のレコードからはじめ、以来多くの歌を発表する。
若い世代がバルバラから学ぶことの第一のものは、彼女の歌は決してゼロから作り上げたものではなく、ベースにあるしっかりした芸術的文化の上に作り上げられたものだということである。バルバラが古い歌を歌う時、それは決して世代を超える共感を求めてではなく、彼女の歌に対する愛と博識がそうさせているのである。
「世に認められない才能なぞはない」とバルバラは1981年インタビューで語った。「無理をしてデビューしようと苦しんだりせよと言うことではなく、うちに秘められた才能がないのに努力してもしようがないということ。これは宗教みたいなものでなければいけない。私より歌のうまい人はいるが、歌で人に何かを与えなければ意味がない」と。彼女は霊的なまでに魅惑的で、いろいろな伝説の持ち主であるが、一つ確かなことは、彼女は、彼女自身も、くるしみも悲嘆も、惜しみなく人に与えたということである。
心理学者がいうように、彼女は悲惨な状況を大きく強調し、何とかしようとする独特の素質に優れていた。日常的なことを取り上げ、差別の問題と戦った。ラシズムとも戦った。薬害エイズ問題とも戦った。
彼女は、長く内に隠していた自分自身の秘密も、徐々に語るようになる。ユダヤ人でありナチの恐怖におびえたこと、幼い時に父親に強姦されたこと、戦争のこと等々。
彼女の歌を聴く時、人はジェノサイドと火葬を思い起こすことになる。三年がかりで作詞した幼年期の心の傷を訴える歌もある。
バルバラは今、シルヴィー・ヴァルタンなどのアメリカン・ロックと共に若い世代に受け入れられている。しかしバルバラはそこに留まるものではない。彼女の歌は、トゥストやヌーベルバーグのMGの軽薄さに、青春に生きるくるしみ、愛が成就できないロマンチックな悲劇的なものと映る10代のくるしみを付け加えるものだ。若者の通過儀礼でもある。彼女の苦しみに満ちた人生は、彼女が訴える一枚板ではない多様な希望を抱く「若者達」に常に支持されるのである。
Véronique Mortaigne
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.02.03
死後5年、バルバラの歌が大いに注目され、売れ続けているとのこと。もうちょっと低音だったらもっと良いと思うんだけれど、これは趣味の問題で、深く訴えるものがある偉大な歌手ですね。
Ecouter la leçon de Barbara (2003.2.6)
バルバラの教えを聴こう
セルジュ・ウローが、この政治的関心の高く、傷ついた一人の歌手の人生を舞台化した。死後5年経って、彼女の歌はいまだに世の中に感動を与える。
バルバラは1997年11月24日、パリで死んだ。呼吸器系と消化系の炎症であった。67歳だった。彼女は死に、その前も90年代に入っては疲れ切って喉を痛めていたが、そのことは彼女がいまだにアイドル的な存在であることには少しも影響していない。今日、彼女の歌は、故ブレルやブラッサンスのものよりも多く歌われているのである。
彼女のサイト(lesamisdebarbara.free.fr)ではバルバラの友人達が彼女に関するすべての事柄を公開している。ダミア、イヴォンヌ・ジョルジュ、エディット・ピアフ、マリアンヌ・オズワルドから彼女に繋がるそうそうたる系譜図まで掲げている。セルジュ・ウローは彼の新しい芝居にバルバラを扱う。「お上品な文化はシャンソンを嫌う。なぜならシャンソンは直接的だからだ」とこの喜劇役者は言う。
彼女はいつも黒い服を着て熱狂的なファンを集めた。晩年は四方を壁に囲まれた庭のある修道院風の引きこもった。死後5年経った今、なぜバルバラの教訓的な歌を聴かねばならないのか? どうして今でもこのアンチ・ポップのスターはこれほどまでに人気があるのか? まずフランスのシャンソンは長い歴史があることを挙げねばならない。黒い服に身を固めたバルバラは昔から体験されたシャンソンを代表する宗教的存在であるのだ。
そう「体験されたシャンソン」なのだ。彼女は惨めさを歌い、よろこびを歌い、時代を歌う。彼女は有名な人気歌手ではあったが同時に政治的参加をする歌手でもあった。平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあり、ミッテランの支持者でもあった。でもバルバラは代弁者、先人の意向を巧みに伝える人として仕事を始めていることが重要だ。1950年代には、彼女はピアフの歌をなぞりながら作詞しているのだ。
バルバラは激しく仕事をして、膨大なレパートリーを増やした。レオン・サンロフ、アンリ・フラグソン、モーリス・キュヴリエ、ポール・マリニエなどの歌である。若い作詞家の歌も多く歌った。ジャック・ブレル、ジョルジュ・ブラッサンス、レオ・フェレ、モーリス・ヴァダラン、ルネ・レヴェックなどだ。1960年には「バルバラ、ブラッサンスを歌う」でグランプリを獲得している。次にブレルの歌で。
1958年には78回転や、45回転のレコードからはじめ、以来多くの歌を発表する。
若い世代がバルバラから学ぶことの第一のものは、彼女の歌は決してゼロから作り上げたものではなく、ベースにあるしっかりした芸術的文化の上に作り上げられたものだということである。バルバラが古い歌を歌う時、それは決して世代を超える共感を求めてではなく、彼女の歌に対する愛と博識がそうさせているのである。
「世に認められない才能なぞはない」とバルバラは1981年インタビューで語った。「無理をしてデビューしようと苦しんだりせよと言うことではなく、うちに秘められた才能がないのに努力してもしようがないということ。これは宗教みたいなものでなければいけない。私より歌のうまい人はいるが、歌で人に何かを与えなければ意味がない」と。彼女は霊的なまでに魅惑的で、いろいろな伝説の持ち主であるが、一つ確かなことは、彼女は、彼女自身も、くるしみも悲嘆も、惜しみなく人に与えたということである。
心理学者がいうように、彼女は悲惨な状況を大きく強調し、何とかしようとする独特の素質に優れていた。日常的なことを取り上げ、差別の問題と戦った。ラシズムとも戦った。薬害エイズ問題とも戦った。
彼女は、長く内に隠していた自分自身の秘密も、徐々に語るようになる。ユダヤ人でありナチの恐怖におびえたこと、幼い時に父親に強姦されたこと、戦争のこと等々。
彼女の歌を聴く時、人はジェノサイドと火葬を思い起こすことになる。三年がかりで作詞した幼年期の心の傷を訴える歌もある。
バルバラは今、シルヴィー・ヴァルタンなどのアメリカン・ロックと共に若い世代に受け入れられている。しかしバルバラはそこに留まるものではない。彼女の歌は、トゥストやヌーベルバーグのMGの軽薄さに、青春に生きるくるしみ、愛が成就できないロマンチックな悲劇的なものと映る10代のくるしみを付け加えるものだ。若者の通過儀礼でもある。彼女の苦しみに満ちた人生は、彼女が訴える一枚板ではない多様な希望を抱く「若者達」に常に支持されるのである。
Véronique Mortaigne
・ ARTICLE PARU DANS L'EDITION DU 06.02.03
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